知韓・通信使・両班

朝鮮通信使
主に江戸時代のことをここでは書く。対馬藩が朝鮮との貿易を望み、幕府も権威高揚に利用するために通信使を迎え入れた。対馬藩が江戸まで案内役をしており、時に通信使が横暴で理不尽であったりして、藩士との間に事件が生じたこともある。庶民から見れば何十年に1回の割の使節団なので、行列は見世物、娯楽であった。参勤交代では立ち見など出来ないが、この使節団の行列は立ったまま見ることが出来た。幕府朝貢使節団という意識であった。宿舎に赴き、日朝儒学者同志で意見交換などもした。
通信使が書いた日記を見ると、日本の大阪や京都、名古屋の街並みの立派さに羨み、朝鮮のものにしたいとまで書いている。
当時から朝鮮人は自大で女中に孕ませたり我儘を通したりして問題を起こしている。日本の儒学者も最初は意見交換していたが、朱子学に凝り固まった朝鮮人儒学者に最後は呆れ果てていた。
江戸時代の幕臣にも親朝派と嫌朝派がいたようだ。
江戸城には裏口から入城したとも言われている。韓国が主張する文化を日本に教えてやる使節団ではないことは明らかである。日本の方が経済的にも文化的にも比較出来ないほど豊かであった。日韓で朝鮮使節団をユネスコに申請しようという動きがあるが、韓国の描く使節団で登録されそうで断固拒否して欲しい。使節団の歴史を少しでも知れば韓国の主張が誤っていると分かるのに。例えるならパンダのようなものである。物珍しさと何事も異種文化に興味を持つ日本人の好奇心が朝鮮使節団を歓迎しただけなのだから。
こうしてみると江戸時代も現代も、日本人と朝鮮人の気質に変化がないことが分かる。
両班と白丁
両班は、謂わば貴族、白丁は奴隷。殆どが白丁であった。名もなく(姓名を持てたのは日韓併合後)、住む家も掘立小屋、便所はなく通路に大小していた。働くことは白丁を意味するので、現代の韓国でも蔑まれている。過去に日本に拉致された儒学者と工藝師のうち朝鮮に帰国したのは儒学者だけだった。工藝師が日本に残ったのは、白丁の身分であったためと言われている。韓国に工藝美術品の管理が出来ないのも作成者への敬意がないからである。創造者への敬意がないためパクりが横行し、パクりを是認し、悪いとは思わないのである。両班の言語は漢語、白丁は朝鮮語を話していたが文盲(文盲率90%以上)。ハングルは合併後日本人が古典から見つけた文字を体系化した。
両班白丁廃止、乳出し民族衣廃止、姓名、ハングル、大高中小学校、上下水道等々すべて日韓併合後日本が行った。
今更言いたくはないが、少しは日本に感謝しろ、と言いたい。