元寇と秀吉

元寇
鎌倉幕府北条氏執権の時、1274年文永の役 1281年弘安の役
いろいろな説があるが、高麗王が元のフビライに日本侵略を唆したとかマルコポーロの黄金の国ジパングが影響したとか、面白い。更に元軍の船を造ったには高麗という。騎馬民族が海を渡ってまで遠征したいものなのか。先にヨーロッパの方へ遠征したので優秀な部下が日本遠征にはいなかったとか、教科書にない面白さがある。何しろ、日本が勝ったのは、台風のおかげという説が誠しやかに流布されている。文永の役の時上陸されて撃退するのに大変だった為、直ぐに幕府は筑前の海岸線に石塁を築き始め、弘安の役に備えている。確かに台風で文永も弘安も元の船は悉く沈没しているが、上陸していたのなら、わざわざ船に戻る必要はなく、日本侵略を続けていたと思う。敗走途中に台風に遭ったというのが事実だと思う。
文永の役の時、対馬壱岐を侵略している。鎌倉幕府としては二度とさせまいと思っただろう。この侵略時の住民への残虐さは酷いものであった。韓国は日本に侵略ばかりされていると言っているが、むしろ、朝鮮民族が侵略した場合は常に残虐さが伴う。
弘安の役には中国人(南宋)も加わって10万の大軍であった。敗走する元軍の中で捕まった高麗人と蒙古人は惨殺、中国人は解放したという。蒙古と高麗は許せなかったのだろう。

*秀吉
よく韓国人は秀吉が韓国の文化を壊した、盗んでいったと言う。400年も前に壊されても時間がたてば普通復旧するものである。復旧出来なかったのはそれだけの文化であったということ。当時原爆も無かったのに。秀吉の武器はどれだけ凄かったというのか。